※本稿はヘンリー・ドレイファスの《シンボル・ソースブック》出版50周年を記念して開催された国際シンポジウム「Symbol ’22: Symbol Sourcebook @50」で発表した原稿に加筆したものである。
https://www.symbol-group.org/copy-of-symbol-22-symposium
1.はじめに
この発表では、ヘンリー・ドレイファス(Henry Dreyfuss, 1904-1972)のシンボルソースブックが出版される以前に探求されてきたが、同書が扱っていない多様なピクトグラムの使い方を探求することを目的とする。特にこれまでにほとんど論じられたことのない1940年代の北米のピクトグラムアニメーションをとりあげる。
ドレイファスのシンボルソースブックは、シンボル標準化の動向が興隆した1960年代を背景に生まれたものである。この本には運動するピクトグラムの項目はないが、それは言うまでもなく、この本が公共空間や機器などで利用されるピクトグラムを中心に取り上げているからである。しかし、ピクトグラムは―その先駆とされる―アイソタイプ(ISOTYPE)に代表されるように、統計図のなかで利用されるなど、多様な利用形態が探求されてきた。とりわけ1930年代から40年代には、ピクトグラムに関係する表現ジャンルが大きく拡がりを見せた。そのひとつが、アニメーションによるピクトグラムの展開である。ピクトグラムのアニメーションと言えばアイソタイプのアニメーションが知られているが、同時期に北米においてもピクトグラムを用いたアニメーションが制作されていたことはあまり知られていない。その代表的存在はフィリップ・ラーガン(Philip Ragan, 1909-1989)という建築家である。ラーガンは1930年代にアイソタイプに影響を受けて図像統計の制作をはじめ、第二次世界大戦中にカナダの国立映画制作庁(National Film Board of Canada (以下「NFB」))のためにアニメーションを約30本制作した。彼はおそらく「運動するピクトグラム」を徹底して用いたおそらく最初のデザイナーであった。
ラーガンの仕事の全体像についてはすでに発表しておいたので(Ihara, 2022)、ここでは「運動」の観点から彼のNFBのために作成されたピクトグラムアニメーションの特徴を改めてまとめる。それから、同時期のドキュメンタリー映画やアニメーションを対象にラーガン以外のアニメートされたピクトグラムの試みを探索する。これらの作業を通して、ピクトグラムアニメーションの可能性について考察する。
なお、「ピクトグラム」は、1970年代後半から一般に用いられるようになった用語であり、この時代には使われておらず、「シンボル」が用いられていた。にもかかわらず、ここではピクトグラムを用いたい。理由はアニメーションにおけるシンボルという語の使用は現代では心理学的な用法などさまざまな文脈で用いられていることから、アナクロニズムではあるがあえて用いることにした。
2.フィリップ・ラーガンによるピクトグラム・アニメーションの制作
1930年代のアメリカでアイソタイプが知られるようになると、このアイデアに基づいて図像統計図を制作するデザイナーが数多く登場した。なかでもピクトグラムの独特のデザイン様式によって目立つ存在だったのが「ソシオグラフィック・フィラデルフィア」(Sociographic Philadelphia)という図像統計をデザインするグループを結成し、その中心人物として活動したラーガンであった。彼はペンシルバニア大学建築学部建築学科の卒業生で、在学中にパリのエコール・デ・ボザールに留学した経験を持っていた。ラーガンの名前が出版物などで確認できるのは大学卒業後間もない1934年からであり、同年の7月に発刊された『ペンシルバニア州労働産業局紀要特別号』が、その最初の業績である。その後、同局の出版物を中心にチャートを中心としたデザインを手がけている。1938年頃からは、WPAの出版物のチャートのデザインが多く、たとえばWPA行政官のネルス・アンダーソン(Nels Anderson)の 著作『The right to work』のイラストレーションなどがある。1940年以降は雑誌フォーチュンのチャートを断続的にデザインしている。
こうしたグラフィックデザインのかたわら、ラーガンはアニメーションの実験を1937年頃から始めていたようである。それは、「ベークライトから切り取られた対象と人物像をパーツごとに機械的に動かす」切り絵の手法を用いた実験だったらしい。
アニメーション制作のはじまり
ラーガンは、1940年から設立間もないNFBカナダのために、プロパガンダを目的とした映画の制作をはじめる。映画制作実績のないラーガンがなぜ雇用されたのかについては詳細は不明であるが、NFBではアニメーション制作のためにウォルト・ディズニー・スタジオと契約したものの、契約の本数を補完するために雇用されたとされる(St-Pierre, 2011)。
最初に制作された作品は政府による価格統制の必要性を説明する《Control for victory》(1941(1942))であるが、この作品は、印刷物を対象とした図像統計のデザインに従事していた経験との連続性を示すシーンを含んでいる点で重要である(図1)。作品は二つの部分から構成されている。最初のシーンでは工場と商店、政府を表すピクトグラムが黒地に白抜きで描かれており、これらのあいだを労働者と、製品を示すピクトグラムが移動する。このシーンの構成は、1937年から38年にかけて出版された書籍、たとえば『One Year of WPA in Pennsylvania』(1937)や、WPAの行政官のネルス・アンダーソン(Nels Anderson)の『The Right to Work』で用いられたダイヤグラムの構造を元にデザインされている。一方、もうひとつのパートはあきらかに作風が異なり、白地の背景にはっきりと労働者と特定できる人物像のピクトグラムが用いられ、品数が減少した商品を競り合うシーンなどドラマ仕立ての内容になっている。
これ以降のラーガンの作品は概ねこの2つのタイプが混ざったかたちで展開している。それゆえ、ここでそれぞれを、概念的表現と説話的表現と定式化しておきたい。説話的表現は、ピクトグラム自体の細かな運動が主役になるが、概念的表現では、ピクトグラム同士の抽象的な関係の表現が中心になる。
Narrative representation/content
説話的表現では、「プラッガー」という名のキャラクターが登場する。プラッガーには妻とそれぞれ名前のある男女の子どもが一人づついて、4人で家族「プラッガー・ファミリー」を構成している。このプラッガーの登場するアニメーションはシリーズとして12本制作されている(Alonge, 2000)。もっともキャラクターとはいえ、プラッガーの姿かたちは、足を大きく拡げ、労働者を表す鳥打ち帽をかぶった横向きの姿勢を持つソシオグラフィックス・フィラデルフィアのシンボルからほぼそっくりそのまま転用されている。またアニメーション全体を通して登場する労働者に対してまったく同じかたちのピクトグラムが用いられており、基本的には個性を持たない存在である。
プラッガーは、感情表現を行うのに必要な表情や手足の細部などは省略されていることから、典型的なアニメーションと比較すると、ことさら大げさな身振りによって威張ったり、意気消沈したり、怒ったりといった感情を表現する (図2)。また、概念的言説の場面も含め、家庭や工場、店などを背景にプラッガーが配置される場合には、中心となる運動はもっぱら歩行移動である。標準姿勢がそもそも足を大きく開いた状態であることから、歩行は大股での動作となり、ロボット兵士の行進を想起させる。
プラッガーの姿勢の変化が意味の違いを表すために用いられることがある。たとえば労働者の通常の姿勢から肩を落とす姿勢への変化は、単に感情や気持ちの変化だけではなく、失業に陥ったことを表している。逆に、失業者が職をえて仕事に従事する場合には、姿勢を正したピクトグラムに変化する。これは二項対立のような単純な差異などの強調を得意とするピクトグラムの特性を活かした演出方法だろう。
Conceptual representation/content
他方、概念的表現としてラーガンの映画が繰り返し表現している代表的テーマは、経済事象、特にインフレーションとその抑制であり、1943年以降にこのテーマが増加している。たとえば《How Prices Could Rise》や《Providing goods for you》、《Money, Goods, Prices》などでの映画では、主役は貨幣と商品であり、消費者の購買行動を軸としてインフレーションの発生メカニズムが説明される。背景に描かれているのは家庭、工場、商店、政府などの組織ないしは場所を表す不動のピクトグラムであり、それらの配置関係が概念的なダイヤグラムを構成している。たとえば、《Control for victory》では垂直と水平のグリッドをレイアウトの基礎として、工場の下に商店と政府機関を示すピクトグラムが配置され、その間での製品を表すピクトグラム(正方形だが)の移動により戦時下の民生品の生産量の減少の様子が示される。政府経済統制のための関係組織が登場する場合は最上位に置かれ、戦争のための原料の調達、インフレ抑制のための価格調整を行う役割が説明される。《Money, goods, and prices》のようなより複雑なダイヤグラムもある。そこでは、家庭を中心に商店、工場、農場、そして政府組織を表すピクトグラムが円形に配置され、さらに、要塞を暗示する砲台のピクトグラムが全体を取り囲んで配置される。こうしたダイヤグラムで分かるのは、リアリズムに基づく図像とは異なって、ピクトグラムの大きさの違いには一貫したルールはないということだ(図3)。
運動表現の面から作品を概観すると、1944年以降の作品、たとえば《Providing goods for you》などに、単調さを避けるための工夫がいくつも見られる。この作品は戦時下での民生品の消費行動の抑制について訴えることがテーマだが、その必要性を商品とグローバル経済との結びつきから合理的に説明しょうとしている。ある店舗で人々が買物するシーンから始まる。陳列棚には商品を表すピクトグラムがディスプレイされているが、ある場面からそれらのピクトグラムは世界地図の特定の生産地(ないしは原料の産地)に円になってマッピングされる。その円が集まり、ひとつの曲線となり海洋を移動する流れを形成する。戦時に敵国の攻撃によりその流れが阻害されている状況が可視化され、United Nationsによる戦時経済体制による制御の必要性が説かれる。
《Providing goods for you》(https://www.nfb.ca/film/providing-goods-for-you/)
同じ観点から《Mutual Aid》 (1944)も特筆に価する(Dugan, 1944)。この作品では、立体的に描かれた動く船が矢印に変換され、さらにそれが連続した線に置き換えられている。こうした変換は、アニメーション一般の技法としては珍しくはないが、平面的なピクトグラムが対象の場合には、その効果は魔術的になる。それゆえこうした効果を批判するアイソタイプのアニメーションなどでは見い出し難い技法である。
《Mutual Aid》(https://www.nfb.ca/film/mutual-aid/)
1945年に制作された《Canada Communique No. 15: The Road Ahead》は、終戦を見据えた除隊兵士たちの社会復帰のためのさまざまなサービスを説明する内容であるが、冒頭は、戦闘機の銃撃や爆撃、潜水艦による魚雷発射シーンで始まり、それらが観者に向かって迫ってくる情景が繰り返し描かれる。このアニメーションの方法上のモチーフはあきらかにこのようなズーム運動そのものである。
社会復帰のためのサービルについて、政府の機関を入り口として、交差した枝道を持つフロー図に沿って順番に説明される。フロー図は遠近法で描かれており順番ごとに次第にズームが拡大される。最後に着くのは、船着き場であるが、さらに海洋に向かって道が伸びており、水平線が地球議に変化してひとつの中心に収斂し、戦後の国際協調が今後の目標となるというメッセージが語られる。このようにこの作品は抽象的なフローチャートを遠近法を用いて立体的に表現し、その展開を軸線に沿う視線の移動で表現しようとした興味深い作品となっている。
ラーガンのピクトグラム・アニメーションの特徴
説話的構成から概念的構成への作品制作の傾向の推移は、後者の経済制度の可視化にこそ、彼の主眼はあったことを示唆している。そのことはニューディール時代にラーガンが制作していたチャートの多くが政府エージェンシーWPAによる失業対策、特に労災補償などの社会経済制度を扱っていたことからも説明できる。
その一方でラーガンはアニメーションという領域に足を踏み入れたことから、この世界特有の表現をめぐる競争状態と否応なく関わることになったと思われる。ピクトグラムを使ったアニメーションという他に類を見ない表現で強みを発揮していたラガンだったが、戦時中に同様の試みが出始める。こうした状況を背景として、1944年頃からラガンはアニメーションだけでなく実写を取り入れた作品を制作するようになるが、これはアニメーションの素材としてのピクトグラムの限界を意識してのことと思われる。