フィリップ・ラーガン(Philip Ragan)のピクトグラフィック・アニメーションによる「事実のドラマ化」

1.はじめに

1920年代にオットー・ノイラート(Otto Neurath, 1882-1945)が構想したアイソタイプ(ISOTYPE)は、ユニークなピクトグラムを用いた図像統計の手法として 1930年代になって世界に知られるようになった。とりわけアメリカでは、アイソタイプの影響を受けた「模倣」が1934年頃から数多く出現していた。しかし、その一方でアイソタイプの拡がりは、単に模倣にとどまらない新しい表現方法の探求も促していた。こうした探求の先頭に立ったのがルドルフ・モドレイ(Rudolf Modley, 1906-76)であった。モドレイは20年代にはウィーン社会経済ミュージアムでパートタイム職員として従事していたが、1930年に渡米し1934年に図像統計社を設立、独自の活動を展開していた。

モドレイによる新しい表現方法の最初の試みは、図像統計ではない「ピクトリアル·ダイアグラム」と呼ぶグラフィックスであった。この実験は1937年から始められた雑誌サーベイグラフィック紙の表紙デザインとして登場し、サーベイグラフィック誌では「ピクトリアル・ダイアグラムとは、新しい展開で統計とは関係なく、組織の活動や土壌浸食過程といった事実を単純化しドラマタイズするが、正確で情報的でなければならない試み」と紹介されている(Anon. 1937, p.489)。ここで、この試みが「事実のドラマ化dramatizing facts」と表現されていることが注目される。というのも「事実」をベースとした創作表現は、写真や映画のドキュメンタリー概念の展開に代表され、同時代のアメリカでは広く共有された方向性であったからである。その意味ではモドレイもそうした風潮を察知し、アイソタイプの枠組みを拡張しようとした、とも言えよう。だが、モドレイが試みた事実のドラマ化は、アメリカならではの特徴を反映していた。カートゥンに代表されるコミック文化の特徴への着目とそのピクトリアルダイアグラムへの応用である。2年後にモドレイは、次のように、この方向性をさらに「絵本」として展開しようとしていた(図1)。

この手法(ノイラートのアイソタイプ)には奇妙な限界があります。それは、ほとんど統計的な記号で表現できる事実や条件しか描かれていないことです。そして、統計は私たちの社会生活の重要な側面を記述するのに十分な役割を果たしていますが、統計的時系列の特殊なケースを除いては、かなり静的な画像を与える以上のことはできません。このような画像を示す多くの統計図表を組み合わせても、連続したストーリーを語ることには成功しません。この目的を達成するためには、グラフィックプレゼンテーションの新しいダイナミックな方法を開発する必要がありました。

(Modley, 1939, p.153)
図1. 社会保障をテーマとしたコミック風のピクトリアルダイアグラム、1939

「ダイナミックな表現」方法としての「大人のための絵本」とは、続きマンガ形式のピクトリアル·ダイアグラムである。さらに、モドレイは、この方向性がアニメーションに向かうとする展望を次のように描いている。

ピクトグラフの技術がよりダイナミックな表現へと発展したことで、教育の新たな可能性を秘めた映画に近いものとなりました。ミッキーマウスが博士号を取って経済学を教えようとしている。

(Modley, 1939, p.155)

モドレイはピクトグラフのアニメーション化については1937年後頃からすでに実験をはじめていた。だが、モドレイの場合は、アニメーションの試みは実験の段階で終わり、代わりにピクトリアルダイアグラムを探求する方向に留まっている。他方、アニメーションとしての図像統計の可能性については、実はアイソタイプの考案者ノイラートが1920年代末からすでに関心を抱いており、イギリスへ亡命した1942年以降にドキュメンタリー映画作家ポール・ローサ(Paul Rotha 1907–1984)との共同作業で、アイソタイプアニメーションの制作に乗り出していた(Burke & Haggith, 1999)。その意味ではモドレイのアニメーションの可能性の提案それ自体は、彼の独創的な展望というよりは、むしろ同時代の傾向として広く共有されていたと言うべきであろう。事実、アイソタイプの発展のひとつの方向性としてアニメーションの可能性を展望していたのは、モドレイやノイラートらだけではなかった。同時代のアメリカにおいて、モドレイやノイラートとは独立して、図像統計のダイナミックな表現の方向性を自覚し、その可能性を探究しようとした人物にフィリップ・ラーガン(Philip Ragan, 1909-1989)という名のペンシルバニア大学建築学科出身のデザイナーがいる。

ラーガンは1930年代中頃からアイソタイプに影響を受けた図像統計を制作していたが、1940年よりドキュメンタリー映画理論家のジョン・グリアソン(John Grierson, 1898 –1972)が責任者を務めるカナダの国立映画庁(National Film Board in Canada(NFB))からプロパガンダアニメーション制作を依頼され、ピクトグラムを用いたアニメーションの制作に従事するようになる。それだけではない。彼は戦争直後1946年に原爆の世界的制御を求める比較的知られた映画《One world of none》を制作した作家でもあり「科学者のディズニー」とも評される活動を行った。

そこで、本論文ではアイソタイプから始まったピクトグラフィック·アニメーションの拡がりとその帰結の一端をラーガンの活動を通して追跡してみたい。ラーガンのケースでは、図像統計の技法の試行錯誤を経てアニメーション制作に向かう過程がはっきりとしており、グラフィックとアニメーションに連続性が見られる点で注目される。加えてピクトグラフィック·アニメーションは、現代の情報グラフィックスでは非常にポピュラーな技法でありながら、少数の事例を除き(Alonge, G.,2000; Ceccarelli, 2011; 2012)、その歴史研究は乏しい。ラーガンの活動に着目する所以である。しかし、ラーガン自身についての主題研究もなく、その経歴を知るための資料もきわめて乏しいことから、本稿の目標は、ひとまずラーガンの活動の全体像を素描し、初期の統計の視覚化の仕事からアニメーションへと至った過程を中心に論証する。

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