3.グラフィックデザインからアニメーションへ

1940年になってラーガンはフォーチュン誌の仕事に平行して、1939年にカナダに設立されたNFBからプロパガンダ、教育アニメーションの仕事を継続して受注するようになる。

1930年代末に世界各国がプロパガンダに力を入れるなかで、カナダにおいても国民への広報が重要な課題となっていたが、そのために有効と考えられた映画メディアに関しては、隣国アメリカのハリウッドの存在もあって、国内ではまったく産業が育っていなかった。そこで、映画産業の育成と同時に広報、教育の需要に応えるために急遽設立されたのがNFBである。英国出身のドキュメンタリー映画の理論家で大衆心理学を学んだグリアソンが総責任者として招聘され、ほぼ彼の考えに沿って設立構想から実践までが遂行された。グリアソンの十八番であるドキュメンタリーに加えてアニメーションの必要性は早くから認識されていたが、アニメーションスタジオを設立するには時間がかかるため、急遽実施されたのがディズニーへの発注であった。ディズニー自体、戦争によって大きく業績が落ち込み、積極的にプロパガンダや教育を目的としたアニメーションを試作していた。1941年にディズニー・スタジオで軍関係者を集めた試写会を実施したが、この上映会にはグリアソンも出席しており、これが直接の契機となってディズニーとの契約が成立した。しかし、ディズニー・スタジオの作品だけでは、戦争財政委員会との契約本数を満たせないことから、他のアニメーターを確保する必要があった。そこで選ばれたのがラーガンである。この経緯については、現在のNFBのページに以下の簡潔な説明がある。

グリアソンは、国家戦争財政委員会との契約条件を満たすために、フィラデルフィア出身の漫画アニメーションを専門とする映画監督フィリップ·ラーガンも呼び寄せた。ラーガンは1941年から1945年にかけて、NFBのために約30本の映画を制作し、プラッガー一家を主人公として、戦勝国債の購入を中心に一般市民の戦争への参加方法を説明した。

(St-Pierre, 2011)

ここではラーガンは「アニメーション映画制作者」として紹介されている。これまでのラーガンの業績に関する議論ではアニメーションとの関わりについてはまったくふれていなかったが、それはNFB以前のアニメーションに関係する事項が表面的にはほとんど見いだせないからである。このNFBの説明にあるように、ラーガンが1940年頃にアニメーション制作の専門家と認知されていたとすると、彼はいつ頃からアニメーションに着手していたのか。またなぜ彼が抜擢されたのだろうか。こうした疑問を明らかにするには、彼の活動を表面下も含めて見直す必要があるだろう。

ヒントとなる資料として、WPA補助金の使用に関する調査報告書(Investigation and Study of the Work Projects Administration, 1940)がある。この報告書には、ラーガンがWPAに申請したプロジェクト「PROJECT 6743. GRAPHICAL PRESENTATION OF DATA AND STATISTICS ON LABOR AND EMPLOYMENT」への従事に関する言及があり、以下のように記されている。

フィリップ·E·ラーガンとスティーブン·B·スウィーニー博士は、ペンシルベニア州のWPA長官に対し、ラーガンのアイデアを発展させ、映画のアニメやコミックと同じように、動画フィルムで統計情報をアニメーションで表現することが望ましいと説得したようだ。それは物体の動きごとに別々の絵を描くのではなく、ベークライトから切り取られた対象と人物像をパーツごとに機械的に動かすものであった。

この記述から、どうやら1937年頃からラーガンは切り絵風のアニメーションの技法を研究し始めていたことがうかがえる。では、どのような作品を制作しようとしていたのか。いまのところ、それらしき作品として確認できたのは次の2本のフィルムである。いずれもWPAをスポンサーに制作されたもので、前者はクレジットもないものの、デザインから判断して間違いなくラーガンの制作物であろう。後者は、災害とその支援に従事するWPAの緊急雇用者の活躍を描いたドキュメンタリーであり、ほんの一部であるが、ラーガンのものと想定されるピクトグラムが挿入されている。

1)《Is work relief better than the dole?》 WPA, 1936,

図10. 《Is Work Relief Better Than the Dole?》 1936 https://archive.org/details/IsWorkReliefBetterThanTheDole1936

前者のフィルムでは、「職業支援は、施しよりはましと考えますか?」は、9つのWPAの政策についてのアンケート調査の結果を表したダイアグラムが表示されるだけのアニメーションである。ダイアグラムには「はい」と「いいえ」の割合がチャートごとに境界を表す三角形のインディケータを持つ帯グラフと数字がある。この三角形のインディケーター付きの帯グラフは『Inventory of the WPA』の中扉でも用いられており、アイソタイプとはまったくかけ離れた技法である。グラフィックとアニメーションの連続性は確認できるものの、フェードイン·アウト効果以外の運動はまったく見られず、初歩的なアニメーションであることから、初期の実験的試みと考えられる。

2)《Shock Troops of disaster》WPA, 1938

図11. 《Shock Troops of Disaster》, 1939 
https://archive.org/details/ShockTroopsOfDisaster1939

もうひとつの映像は、甚大な被害を与えた1938年にアメリカ東部を襲ったハリケーンの被災地の悲惨な状況と、救援するWPAの活動を描いた1939年のドキュメンタリー《Shock Troops of disaster》 である。この映像そのものはラーガンが制作したものではないが、被害を描く前半からWPAの活動を描く後半への場面転換に、支援労働者の派遣の数量を、ハンマーを振り上げる労働者のシンボルで描いたグラフィックがズームダウンで挿入される。ラーガンが関わったことはほぼ確かであるが、シンボルそのものに動きはなく、静止した統計グラフやシンボルをズーム撮影しただけのものであり、先ほどの事例と同様に、初歩的なアニメーションである。

以上の2点以外に、ラーガンが関与したと想定される映像はいまのところ筆者はまだ確認できていないものの、「ベークライトから切り取られた対象と人物像をパーツごとに機械的に動かす」方法によって何らかのアニメーションを製作していた可能性は否定できない。

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