5.ディズニーとアイソタイプの間

戦後のラーガンは、フォーチュンの仕事に加え、複数のクライアントから映像の仕事を受けていた。The National Committee on Atomic Information からの依頼で制作された《One world or none》は、ラーガンの映画のなかでも,もっとも知られている作品であろう。原爆の恐怖とその国際的管理を訴えたこの映画では,実写と複数の様式を持つアニメーションの組み合わせが用いられている。広島長崎の犠牲者のシーンを含む実写映像と、アニメーションのパートにおいて、ダイアグラムに加えて、それまでのラーガン作品では見られなかった写実的なイラストレーションと、核分裂を表現する抽象的なイラストレーションなどが確認できる。これらのイラストレーションを担当したのがサム·フェイスタイン(Sam Feinstein, 1915-2003)であり、彼は1946年から48年までの2年間ラーガンプロダクションでアニメーターとして働いていた。

ラーガンは、戦時中の1941年にフィラデルフィアにアート·ギャラリー「Ragan Art Gallery」を開設、1943年にアート雑誌『ART OUTLOOK』を発刊する(1943年1月から1949年夏まで)など、アートとの関係を深めていたが、フェイスタインの雇用もこうした関心からであろう。というのも彼は抽象表現主義の絵画を描くロシア出身の画家であったからである。しかし、フィルムへのクレジット掲載が許可されなかったことから、フェイスタインはこの作品を賞賛する記事を書いた新聞記者に送った手紙にこう書いている。

これらのシークエンスは(ペンシルバニア大学物理学部のLeonard Schiffy博士の監修の結果)科学的に正確と同時に、わたしの創作と実践の努力による視覚的にドラマティックな、まさに技術的力作だった。

フェイスタインの主張は、ラーガン映画のそれまでの様式的特徴から判断して疑いのない事実であろう。核分裂を表したシーンは、彼専門の物理学者の観修をえたという点で正確さが担保されていると同時に、ドラマチックな視覚効果の実現にも成功したというが、その抽象的な表現性は、確かに抽象表現主義の芸術動向にあったフェイスタインの絵画性でもあろう。その他のシーンにおいても、原爆投下に重ねられた人々の恐怖を表す写実的画像もまたフェイシュタインが担当したものと想定される。この抽象表現による恐怖の演出と対比させるように、この作品では、冒頭のタイトルの「O」から地球への変換、円卓による会議のテーブル、ドクロを中心とした原爆の及ぼす範囲を示す円など、円によるシンボリックな形態が随所に用いられている。すなわち、全体の印象は手に負えない「恐怖」の対象とその制御である。円はカオスの封じ込めに用いられていると解釈される(図18)。

図18.《One world or none》1946.
https://archive.org/details/0995_One_World_or_None_01_35_20_16

1949年の地元新聞『フィラデルフィア・インクワイアー』紙11月号にラーガンを特集した記事が掲載されている。ラーガンを「科学者たちのディズニー」として持ち上げているが、それは《One world or none》が著名な科学者で構成された米国科学者連盟(The Federation of American Scientists)の支援を受けたものであり、その出来具合をアインシュタインなどから賞賛を受けた事実などに基づいてのことであろう。

図19 ‘Facts can be interesting: the Disney of the scientist teaches by animated cartoon’, Philadelphia Inquirer Magazine, 18 November.

この新聞の記事で、ラーガンは自らの方法を、次のように述べている。

ディズニーがやると、教育は娯楽の副産物だ。私がやると、別のやり方になる。私の映画はできる限り人間的でありながら、客観的で、事実に基づいている。それらはフィクション的な迂回路に進路をとることのないアニメーションの事実である。フィクション的な迂回路では観衆がメッセージを笑いの副産物として受け止めるような楽しいストーリーを語る。

ディズニーとの対比により、差異を際立たせるこうした論法は、冒頭のモドレイの引用文「Ph.Dを取得したデミッキーマウス」にも見られた。ラーガンの場合は、娯楽と教育の違いをディズニーに言及することで説明しようとしている。ディズニーとの対比によって「教育」的価値を強調する論法はノイラートも例外ではない。彼もかってある雑誌でディズニーのドローイングとともにアイソタイプの図版を併置する案が持ちかけられたとき、その可能性を次のように否定している。

ディズニーの写真と我々自身のドローイングとをいっしょにするのは耐えがたく、いずれかに限られます。彼の地図や他のドローイングは、原理的にわれわれが意図しているような教育的な情報を与えることを意図していないからです。

(McIlvaine, 1949)

このように、ノイラートの場合には、ディズニーとの境界設定に敏感であり、アイソタイプとの両立の困難な存在と見なされていた。この厳しさに比較すると、ラーガンの場合は、少なくとも表現形式においては、相対的に間口は広いであろう。初期のプラッガーというキャラクターの動きにはユーモアが見られるし、戦争末期から戦後にかけての作品では、ピクトグラムの比重が相対的に低下し、濃淡のある写実描写や抽象が加わってきている。また、両者の違いは、ラーガンが制作者としてアニメーションを探究してきたことにも由来するであろう。特に2分を超えるアニメーションでは単調さは避けられない。アイソタイプのみで制作された唯一のフィルム《A Few ounce in a day》(1941)は6分の長さであるが、全体的にやはり単調である。もっともノイラートはアイソタイプをディレクションしてきた理論家である。彼にとっては視覚デザインの革新は二の次であり、視覚的論証を通した教育がもっとも重要な目標であり、ピクトグラムはそのために不可欠な言語要素であった。

ラーガンの方向は、積極的にカートーン文化の要素を取り入れイラストレーションの領域へと近づいたモドレイに似ており、戦中から戦後にかけての「動くピクトグラム」の探求は、この形式のアニメーションとしての表現の可能性の探求であった。

1946年頃までのラーガンの境遇は順調だったようで,スタジオの拡充などの事業の拡大に乗り出していた。しかしそうした状況も長くは続かず,1948年頃にラーガンプロダクションは倒産し、プロダクションとしての活動を停止したと思われる。にもかかわらず1947年以降も断片的にラーガンのアニメーション作品の存在が確認できる。それらはいずれも《Target you》や《Front-lines of freedom》など核の恐怖と共産圏の脅威を訴える冷戦の産物であり、「国際的理解の健全な原理」を伝えるものと期待された映像とはほど遠い、政治的状況をダイレクトに反映した陰鬱な作品となっている。こうした作品の存在も、その後ラーガンが忘却された理由のひとつであろう。

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